みなさん、こんにちは。やっこです。
私、「疲れた」言いたい病です。
「疲れた」という言葉に洗脳されているみたいです。
そして、洗脳しているのは、もちろん「私」です。
洗脳されているのではないかと、薄々気づいてはいましたが、
あまりにも「疲れた」という言葉が簡単な表現なので、
ついつい使ってしまいがちです。
でも、ふと、思うことがあるんです。
「はぁ~、疲れた。」と言いながら、
「ん?」
「今の私、疲れてる?」
「それとも、疲れていると脳に思い込ませてる?」
みなさんは、「疲れた」ってついつい言ってしまうことありませんか?
私は、「疲れた」と一日に何回言っているでしょうか。
挨拶代わりなっていたりするし、もっと言うと、
「よいしょ」の掛け声の代わりにもなっていたりもします。
深呼吸をして、息を大きく吐くたびに「疲れたぁ~」、
「疲れた」の連呼です。
でも、どちらかというと、無意識に発していることが多いような気もしています。
なので、こんな風に思うこともあります。
仕事から帰宅して、「あぁ~、疲れた」とまず第一声。
「ただいま」の挨拶の代わりに、ついつい言ってしまっています。
でもよく考えると、今日はそんなに疲れることをしていなかったわ・・・
なんて思ったり。
または、
「今日は、一日出かける予定があるから疲れるな。」
なんて思うこともあります。
でも、「あれ?出かける前から疲れることが前提なのか!?」と、
疲れるか疲れないかが分からないうちから、
頭の中で「疲れる」と判断してしまいます。
私の一日は、「疲れる」で始まり、「疲れた」で終わる、疲れと共存する毎日。
それは反射的に、そして連想ゲームのようです。
仕事 → 疲れる。
というように、「〇〇といえば疲れる」が、年々増えていっているみたいです。
でも、本当に疲れた時の自分を知っています。
放心状態。
「疲れた」っていう言葉さえも出せないくらい、疲れていたりします。
ここまでいくと、「疲れた」というより、「疲れ切っている」と言ったほうが
いいのかもしれません。
そこまでではない疲れだとしても、「疲れた」という言葉が、
更に自分を疲れさせてしまうような気がしています。
「疲れた」発言が口癖になって、
「私は疲れてる」と脳に思い込ませているのではないだろうか・・・
そうなふうに思うことがあります。
そう、自分で自分を洗脳しているみたいです。
それによって、大して疲れていないのに、
疲れている自分を作り上げているようです。
子供の頃はすごくシンプルでした。
疲れたとか疲れていないとか分からずに没頭して、
疲れていたら、ぐっすり寝る。
それで済んでいたはず。
体の疲れを癒せば済んでいました。
それに、子供の頃の「疲れた」は、ポジティブなイメージでした。
やり遂げた感があって、「終わったぁ~、はぁ~、疲れた!」って感じでした。
歳を重ねるにつれて、いろんな経験が自分を複雑化して、脳内の情報量も増えて、
体の疲れと頭の疲れが混同して、疲れの取り方も複雑になっています。
その知識と経験が、勝手に脳も身体も疲れたように思わせているのが、
大半なような気がしています。
疲れた経験を引き出して、疲れたことにしてしまっているように感じています。
だとしたら、「疲れた」と思わなければいいのでは?
「疲れた」と脳に教えなければいいのでは?
とさえ思います。
始める前の「疲れる」は、ただめんどくさいだけ。
終わりの「疲れた」は自分を労りたいだけ。
「疲れた」という短調な言葉だけで脳内で処理せずに、ボキャブラリーを増やして、
疲れているかもしれない自分からの洗脳を解かなくてはなりません。
本当は「疲れた」という言葉だけでは片付けられないはずなのに、
簡単に「疲れた」と言って、脳に「疲れた」という言葉を叩き込んでも、
脳は「疲れた」という言葉に含んだ色んな意味合いまでは、
配慮してくれないかもしれない、
ただ「疲れた」がひとり歩きするだけ、と思うんです。
脳に思い込ませるのをやめよう。
それがきっと、「疲れている人」なんて単純な人ではない、
深みのある人間を作ってくれるような気がしています。
みなさんはどう思いますか?
みなさんも一緒に、脳に思い込ませるのをやめて、
疲れた自分を解放しませんか?
ブログを書き終え、
「はぁ~、疲れた」
おっと、また言ってる。
疲れていない、書き上げたことに満足している。
今の「疲れた」は、満足感からの「ポジティブ疲れた」です。
それなら、「はぁ~、疲れた」ではなく、
「あぁ~、楽しかった!」
今度からそう言葉にしようと思います。