おば革命

歳を重ねることは楽しい! 『オバサン』のイメージを変革

歳を重ねることは楽しい!『オバサン』のイメージを変革

お笑いトリオが教えてくれる、迷いと選択。

みなさん、こんにちは。やっこです。

 

先日、お笑いトリオの「3時のヒロイン」が
【容姿ネタを捨てます】宣言をしました。

この宣言をするに至った思いをある番組で語っていましたが、
それを観てから私は、このことについて考えています。

だいぶ長い間考えているので、そんなに長く考えることなのか?
なんて思いながらも、
いや、これはなかなか深いのでは?
なんて思うこともあって・・・
どうも私には引っかかることがあるようです。

 

このニュース、みなさん、どう感じますか?

 

news.yahoo.co.jp

 

 

本人たちは、自分たちの容姿をネタにすることは面白い、
そして、自分の容姿が笑いになるのならありがたい、
いわゆる【おいしいネタ】だと楽しんでいました。

しかし、容姿をいじるネタは、
見る人によっては不快な思いをさせてしまうこともあり、
テレビのエンターテイメントとしてではなく、
視聴者のリアルな生活と同調してしまっているといいます。

不快に思う人もいるんだよなと思いながらやるのはどうなのか、
自分たちが面白くても見る人が楽しめないのなら捨てよう、
という決断に至ったようです。

容姿をネタにするのは今の時代どうなのか、時代の流れだろうとか、
ただネタが面白くないからなのでは?などなど、様々な意見がありますが、

今回私がまず感じたことは、『迷いと選択』です。

 

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迷いと選択は、自分を軸にするか、他人を軸にするかで、大きく変わる。

 

私たちは常に迷いながら生きています。
自分と周囲の意識の違いを感じたときには、
特に大きく迷うことがあり、選択もなかなか難しく感じます。
そして、この迷いと選択は、
自分に意識を向けるか、他人に意識を向けるかで、
大きく変わっていきます。

 

表現することの迷いと選択

エンターテイナーとして、自分がやりたいことを表現していくこと、
そして、見る人を楽しませたいという思い、この2つを意識しながら、
どのようにエンターテイメントを作り上げていこうかと考えると思います。
でもそれが、見る人を意識しすぎてしまうと、
そこに、本人たちが本当にやりたい表現はあるのだろうか・・・
と考えてしまいます。
結果、表現する側と見る側、双方とも楽しめないことに
なってしまうように感じます。

 

私はブログのことを思いました。

 

ブログは、自分が思うことや伝えたいことを綴ったり、
読む人が知りたいと思うような情報を伝えたりする場所です。

ですので、自分の世界観を表現したいと思うことと、
読む人が面白いと思ってくれることの両方を意識します。

自分が面白いと楽しんで、読む人も面白いと思ってくれる、
そんなブログを作ることが、目標となります。

でも、人それぞれの価値観もあるので、微妙なズレはあり、
それが表現することの難しさです。

 

こんなことを書いたら気にする人がいるかもな、
こういう書き方をしないと誤解されるかもしれない、
自分が伝えたいことが伝えたいように伝わるかな、などなど、
読む人の心にスッと馴染んでくれるような表現を考え過ぎて、
自分の世界観をうまく表現できなくなります。

 

ストレートに表現すればどんなに簡単なことだろうと思いますが、
そのストレートが誤解を生んで、読む人が面白いと思わなければ
意味がなくなってしまいます。

 

やはり、読む人が面白いかどうかがポイントになります。
でも、そのポイントに寄せすぎてしまうと、
自分を表現することが分からなくなってしまいます。

 

表現をするということは、この自分と周囲とのバランスの中で
自由を探さなくてはなりません。

 

表現をすることは、常に迷いと選択です。

 

そんな中で、こうも思います。

 

「万人に受け入れられないとだめなのだろうか」ということです。

 

誰もがみんなに受け入れられるように表現をしていったら、
同じエンターテイメント、同じ表現しか生まれないような気がします。

そして、表現はみんなが受け入れるのに、時間がかかると思っています。

今までにないことをすれば、
受け手は今までにないことにびっくりをして、
受け入れがたいと反応してしまいます。
前例がないことに脳が驚くでしょう。
でもそれは、時間をかけて馴染んでいくことでもあるように感じています。

また、誰かがいいと思うと、
みんなもいいと思うようなこともあります。

誰かがいいと判断したことは、
自分も受け入れていいことなのかもしれないと思うからです。

受け手を意識しすぎて、みんなに好かれようとすれば、
そこに個性が生まれるのかは難しいところです。 

最近は、多様性がさらなる画一性を作っているような気さえしています。

 

みんな、迷いながら生きています。

他人を意識しすぎて自分を見失ってしまうのは、本末転倒です。
でも、自分本位でも共存はできません。

このバランスはとても大事で、それはマニュアルがあるわけでもなく、
特に表現をすることの自由には曖昧な部分もあって線引は難しいです。

表現し続けながら、バランス感覚を養っていくしかないのかもしれません。

 

迷いと選択には、「ニコッと」がポイント

 

仕事、結婚、出産、家族、人づきあい。
誰もがみな、色んなことに迷いながら生きています。

将来どうしたらいいのだろう、今を続けようか、変えてみようか、
常に迷いと選択を繰り返しています。

そんな中で、他人を意識しすぎず、みんな同じでなくてもいい、
時には誰かに相談しながら、何よりも自分が楽しいかどうかだと思います。

 

私は、何かに迷ったとき、選択した方をイメージして、
ニコッと」笑えたほうを選んでいます。

それは人生の選択のような大きなことだけでなく、
日常の些細なことからいつもそうしています。

例えば、夕飯に何を食べようかと迷ったときも、
それぞれ食べている自分をイメージして、「ニコッと」した方を選んでいます。

日頃からこの「ニコッと」を意識して選択していると、
大きな迷いのときにも自分の「ニコッと」をイメージしやくすなります。

それが、自分が楽しいかどうかの選択だと思います。

 

そうやって自分に目を向けて選択していくと、
迷いと選択も少し楽しく感じるかもしれません。

 

みなさんも自分の「ニコッと」を聞いて、
たまには選択してみるのはいかがですか? 

 

疲れているのか、疲れていると思い込ませているのか・・・

みなさん、こんにちは。やっこです。

 

私、「疲れた」言いたい病です。
「疲れた」という言葉に洗脳されているみたいです。
そして、洗脳しているのは、もちろん「私」です。

 

洗脳されているのではないかと、薄々気づいてはいましたが、
あまりにも「疲れた」という言葉が簡単な表現なので、
ついつい使ってしまいがちです。

 

でも、ふと、思うことがあるんです。

「はぁ~、疲れた。」と言いながら、
「ん?」
「今の私、疲れてる?」
「それとも、疲れていると脳に思い込ませてる?」

 

みなさんは、「疲れた」ってついつい言ってしまうことありませんか?

 

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脳はだまされやすい。



私は、「疲れた」と一日に何回言っているでしょうか。
挨拶代わりなっていたりするし、もっと言うと、
「よいしょ」の掛け声の代わりにもなっていたりもします。

深呼吸をして、息を大きく吐くたびに「疲れたぁ~」、

「疲れた」の連呼です。

 

でも、どちらかというと、無意識に発していることが多いような気もしています。
なので、こんな風に思うこともあります。

 

仕事から帰宅して、「あぁ~、疲れた」とまず第一声。
「ただいま」の挨拶の代わりに、ついつい言ってしまっています。
でもよく考えると、今日はそんなに疲れることをしていなかったわ・・・
なんて思ったり。

 

または、

 

「今日は、一日出かける予定があるから疲れるな。」
なんて思うこともあります。
でも、「あれ?出かける前から疲れることが前提なのか!?」と、
疲れるか疲れないかが分からないうちから、
頭の中で「疲れる」と判断してしまいます。

 

私の一日は、「疲れる」で始まり、「疲れた」で終わる、疲れと共存する毎日。

それは反射的に、そして連想ゲームのようです。

仕事 → 疲れる。

というように、「〇〇といえば疲れる」が、年々増えていっているみたいです。

 

でも、本当に疲れた時の自分を知っています。
放心状態。
「疲れた」っていう言葉さえも出せないくらい、疲れていたりします。
ここまでいくと、「疲れた」というより、「疲れ切っている」と言ったほうが
いいのかもしれません。

そこまでではない疲れだとしても、「疲れた」という言葉が、
更に自分を疲れさせてしまうような気がしています。

 

「疲れた」発言が口癖になって、
「私は疲れてる」と脳に思い込ませているのではないだろうか・・・
そうなふうに思うことがあります。

そう、自分で自分を洗脳しているみたいです。

それによって、大して疲れていないのに、
疲れている自分を作り上げているようです。

 

子供の頃はすごくシンプルでした。
疲れたとか疲れていないとか分からずに没頭して、
疲れていたら、ぐっすり寝る。
それで済んでいたはず。
体の疲れを癒せば済んでいました。
それに、子供の頃の「疲れた」は、ポジティブなイメージでした。
やり遂げた感があって、「終わったぁ~、はぁ~、疲れた!」って感じでした。

 

歳を重ねるにつれて、いろんな経験が自分を複雑化して、脳内の情報量も増えて、
体の疲れと頭の疲れが混同して、疲れの取り方も複雑になっています。

その知識と経験が、勝手に脳も身体も疲れたように思わせているのが、
大半なような気がしています。
疲れた経験を引き出して、疲れたことにしてしまっているように感じています。

 

だとしたら、「疲れた」と思わなければいいのでは?
「疲れた」と脳に教えなければいいのでは?
とさえ思います。

 

始める前の「疲れる」は、ただめんどくさいだけ。

終わりの「疲れた」は自分を労りたいだけ。

 

「疲れた」という短調な言葉だけで脳内で処理せずに、ボキャブラリーを増やして、
疲れているかもしれない自分からの洗脳を解かなくてはなりません。

 

本当は「疲れた」という言葉だけでは片付けられないはずなのに、
簡単に「疲れた」と言って、脳に「疲れた」という言葉を叩き込んでも、
脳は「疲れた」という言葉に含んだ色んな意味合いまでは、
配慮してくれないかもしれない、
ただ「疲れた」がひとり歩きするだけ、と思うんです。

 

脳に思い込ませるのをやめよう。

 

それがきっと、「疲れている人」なんて単純な人ではない、
深みのある人間を作ってくれるような気がしています。

 

みなさんはどう思いますか?

みなさんも一緒に、脳に思い込ませるのをやめて、
疲れた自分を解放しませんか?

 

 

 

ブログを書き終え、

「はぁ~、疲れた」

おっと、また言ってる。

 

疲れていない、書き上げたことに満足している。

 

今の「疲れた」は、満足感からの「ポジティブ疲れた」です。

 

それなら、「はぁ~、疲れた」ではなく、

「あぁ~、楽しかった!」

 

今度からそう言葉にしようと思います。

ある人の話をしよう。人づきあいについて思うこと。

みなさん、こんにちは。やっこです。

 

わたしの身近にこんな人がいます。

 

予定はあくまで予定であり、決まりではない人。

 

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例えば、

「お昼におそばを食べに行こう」と出かけ、店に向かう途中で「ピザ」に変わる。

という風に、最初に決めた予定が予定どおりとはならなくて、一度は変わる人です。

 

他にも、

「今日は南の方へ出かけよう」が、北の方に変わる。

「街に出よう」が、自然豊かな場所に変わる。

「近場にしよう」が、遠出に変わる。

出かける予定だったのが、やっぱり家でゆっくりしようも、もちろんあるし、
その逆のパターンもあります。

「海に行こう」が、「山に行こう」に変わるくらい、大きく変わることもあります。

前日に決めていた予定が、当日の朝変わります。

決めたことが必ずではなく、予定が真逆になるのが日常で、
優柔不断ともまた違い、うっすら気分屋でもあり、
でも、ただ気分屋というだけではなく、
ノリと、その瞬間にひらめいたことが、より面白い!と思うと、
そっちになる人です。

 

さて、みなさん、これを聞いてどう思いますか?

 

お昼におそばを食べに行くって話になっていたから、
お蕎麦の口になっていたのに・・・ピザかいっ!?

ここに出かけるって言うから、この格好にしたのに・・・。
そこだと、この服装じゃないじゃん!?

出かけるテンションだったのに・・・。
おうちでゆったりモードに切り替えるの!?

 

私はそう思います。

気持ちの切り替えに忙しくてついていくのが大変だわと思っています。

そして毎回、一度はツッコミを入れます。

「またかいっ!」

ツッコミは入れるけど、反対はしません。
私はあえてそれに乗っかります。

なぜか?

自分では思いも寄らない思考に乗っかることで、
新たな発見ができるのではないかという期待と、
柔軟な脳でいたいという思いがあるからです。

面白いと思ったのなら、やってみようじゃないかと乗っかってみます。

 

このように、自分では思いも寄らない言動をする人と、
みなさんはどう付き合っていますか? 

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人づきあいで柔軟な脳をつくろう。

 

 

ノリがあうから付き合う人もいるでしょう。
めんどくさくて付き合わないと言う人もいるでしょう。
疎遠になる人もいるかもしれません。

 

私は、自分とは違う、という人とどう接するかで、
自分の思考の可能性を広げられるのではないかと思っています。

 

自分では考えつかないことは、
自分では使ったことのない脳を使っているような気がします。

そうすると、自分の視野が広がって、思いも寄らない可能性が秘めているかもと、
ワクワクします。

 

自分と違うことをただ嫌うのではなく、とりあえず受け入れてみる
なにもないうちから、どうなるかもわからないうちから、早々と判断せずに。

 

とりあえず受け入れてやっぱりストレスだわと思うならやめればいいし、
最初は苦手でも付き合いが長くなると自然な付き合いになるかもしれないし、
人づきあいってこんな感じかなって思っています。

 

はじめから絶対に気が合わないといけないわけでもないし、
自分とは違うと思う人でもテンポは合うっていう人もいるし、
合わないことが新しい何かを発見できる関係だということもあるし。

 

同じでなくてはならないことはなく、違うから面白いこともある、そう思います。

 

たしかに同じ思考の人とは何だか落ち着いて付き合いができるし、和みます。
違う思考の人には、刺激をもらえます。

 

人づきあいも色々ですよね。

 

年齢を重ねていくと今までの経験が脳を支配し、
言動をパターン化してしまうように感じています。

 

いわゆる思い込みです。

 

思い込みは摩擦を起こすこともあります。
そして、自分の可能性を狭めてしまうような、
もったいないことになってしまいます。

 

私はなにより、柔軟さが大切だと思っています。

 

魅力的だなと思う人は、柔軟な人のような気がします。

歳を重ねるごとに柔軟な人って、すごく魅力的だなと思っています。

 

『人づきあい』

 

たまには、深く考えずにノリでつきあってみるのもいいかなと感じています。